私とマーチング

2005.4.10

きっかけはただの追っかけママだった

私がマーチングの追っかけをし出して、早や10年になります。
長男・隆司の入学の年は金光大阪高校のマーチング初年であり、ほとんど立奏で、ほんの数枚のコンテを動くのが精一杯のマーチでした。
その年のシーズン後からDCIから帰ったばかりのM谷氏をインストラクターに迎えたものの、2年目には隆司の学年から大量 の退部者を出す有り様で、隆司の在校中には、地区大会に出るのがやっとの状態でした。それでも、「よく動けるようになった」「いい音になった」と親バカ満開で追っかけたものです。

大会のもう一つの楽しみは、自校とは雲泥の差ほどレベルの違う学校の演技を観られることで、初めて目にしたM学院のショウには、鳥肌が立ちました。
「うちの子たちもこんなことができるようになるんだろうか?」とワクワクしたものです。
当時、中学生だった裕明がマーチに目覚めたのは、中学2年の時で関西ではおなじみの「3000人の吹奏楽」のDMに選ばれたのがきっかけでした。支給されたメジャー・バトンを2ヵ月ほどで修理しないといけないほどボロボロになるまで練習し、手具のおもしろさを知ったのでしょう。「カラー・ガード」をやりたいと言い出すようになっていました。
裕明が高校を金光大阪に決めたのは、M谷氏が指導者だということと、その年からカラー・ガードが設けられることになりそうだということからでした。(結局、予算の都合とやらで、カラー・ガードはその後も設けられることなく、裕明は3年間Tpを吹くのですが)
兄たち先輩の遺した礎の上に、弟たち後輩が次々に積み上げて、裕明3年生の年には、「こんなことができるようになるんだろうか?」と思っていたM学院と全国の切符を競うほどまでに成長しました。
この頃には、私も他のことは放っておいてでも「マーチ」と聞けば一日潰すことも苦にならないほどの立派なマーチ馬鹿になっていました。

DCI・WGIとの出会い

M谷氏が子供たちに見せて下さった一本のビデオ。これが、その後の我が家の暮らしを変えてしまったと言ってもいいでしょう。
DCI(Drum Corps International)のMadison Scoutsのビデオは、私たちが見たこともないような美しさと力強さを持っていて、その後、いったい何度このビデオを見たことか。でも、はるか遠いアメリカのことで、ただの憧れでした。
隆司が高校卒業して1ヵ月目、DCI-Div.3のYamato からお誘いを受けた時は、DCIに行けるというので、小躍りして喜んでいました。 隆司は、'98、'99とYamatoに参加したあと、'00の1年をJokers(1989 Jokers Sr.Drum & Bugle Corps)でお世話になり、エイジアウトの2001年をBlue Knigtsで過ごしました。 この年のBKはFinalに進めませんでしたが、私たちは 隆司のおかげで念願のDCI観戦を果 たし、存分に楽しんで来ました。
隆司にとって、2001年は、楽しいこと以上に苦しいことの多い年だったと思いますが、その分、得たものも数限り無くあったと確信しています。
'02年は、'99年にお世話になったLA(Legend of Angels)に、プレイヤー兼スタッフとして戻り、翌03年にはインストラクター専任でお世話になりました。

「高校を卒業したら進学はせずにアメリカに行く」と決めていた裕明がDCIに加えてWGI(Winter Guard International)行きを決心したのは、カラー・ガードを始めるに当たって、無理を言って入団させてadaiいただいたGLORIAがちょうどその年にWGIに参戦したことがきっかけでした。
言葉は全く話せないけれど、夢だけはぎっしりとスーツケースに詰め込んで'01年12月、たった5ヵ月の経験しかないビギナーのまま、まずSolutionに向けて飛び立ちました。
WGIでは、SolutionはMake Finalできませんでしたが、 裕明は、Solutionのメンバー全員一致でRookie of the yearを頂いて、'02WGIのシーズンを終了したあと、Madisonに移動。
この年のMadison Scoutsは、ホームショウだったと言うのにMake Finalできず、悔しい涙を流すことになります。
そして、「息子たち、気をつけて帰りなさい。そして来年も戻って来なさい」と言っていただき、今も「おとうちゃん」と裕明が呼ぶMr.Scott Stewartの突然の引退。2002年の夏は彼らにとって、苛酷な夏になりました。


ようやく我が家にとって、初めてのMake Finalとなった2003年を経て、2004年に裕明もAge out。
2人合わせて計6年間のDCI体験、4回の親バカ観戦も完了しました。

今、息子たちは、それぞれの道を歩んでいます。夢を持ち続ければ、いつかは実現できることを自ら体験してきた彼らに、親としてはむしろ教えられることの多い今日このごろです。

ネットで広がる交流

DCIが何をするところか、何も知らない私がネットで情報集めをするようになったのは'98Yamatoが出発してからでした。 この頃の情報源はJMF(Japan Marchin Forum)。JMFを起点に、どんどんネットの輪が広がることになります。
マーチングには不思議な魅力があって、大会に足を運ぶうちに、わが子の姿を追うよりも全体の動きを楽しむようになり、やがて、他の団体の演技に興味を持ち出すと、もうあとは止まりません。体が震えるほどの感動をもらってしまうと、これで立派なマーチング中毒になれます。私の周辺にも、かなりの重症者が何人もいらっしゃいます。
緊張感のある大会もいいのですが、最近は作られていく過程の練習を見せてもらうことも大きな楽しみになりました。ここまで来ると、完全にバカだそうです。
東京、岡山、北陸、沖縄..。今までいくつもの大会を観に行きましたが、そこでは必ず、ネットを通 じて知り合った人との出会いもあります。これは観客ならではの楽しみの一つ。
人との出会いをこんなに楽しくさせてくれたのは、海のものとも山のものともわからない私を快く迎えて、自分達の時間を3日も削っておつきあい下さった沖縄の人たちとの出会いがきっかけでした。 もうあれから3年も経つのですが、昨日のことのように、鮮明な印象を持って、あの3日間は今も蘇って来ます。 いただいたあの温かさを今度は私が誰かに感じてもらえることでお返しの真似事ができるかもしれない。そんな考え方を生まれさせてくれた出会いでした。

これを読んで下さる人がいてくださるとしたら、多分、ネットのマーチング関係の方がほとんどだと思います。おかげさまで、私は、恐らく日本一幸せなマーチングミーハー道をますます極めております。
親子ともどもこれからも御指導よろしくお願いします。

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