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2001年9月7日(金) 1ヶ月ぶり
出発って言って、出かけたっきり帰ってないぢゃん。私。(^^;;

なんだかんだで、あっと言う間の1ヶ月でした。
DCI観戦記、まとめてド〜ッとアップしようと準備してるうちに1ヶ月。
んまぁ、来年のファイナルウィークまでにアップできたらいいやろ〜〜。なんちって。
DCI、時が経つほどに、色々なことが印象深くなって、蘇ってきます。
行ってよかった。隆司の姿を見届けられたってことももちろんだけど、裕明との関わり方についても、考えることができたし。

裕明、進学もしないで、DCIを目指してがんばってるけど、親としては、色々思うこともあるわけです。
不安っちゅうか、心配っちゅうか、「これでよかったのかな?」と思うことはあります。
でも、帰って来た隆司を見てると、安心して出してやれます。
ほんっとに、隆司は大きくなって帰って来た。
過去の隆司は妙な自惚れと、妙な不安を両手に持っていたのに、地に足のついた自信と思い遣りのある謙虚さに換えて帰って来たなと思います。
親が20年かかっても与えてやれなかったものを、たった2ヶ月過ごしたアメリカで掴んで帰って来たんでしょうね。

一つ、肩の荷がおりたって感じの今日このごろ。
2001年9月7日(金) QueenStar
ついでに書いちゃいます。
明浄のショウを初めて見たのは、隆司が金光1年の時のS連大阪大会。
金光大阪はその年からマーチ始めて、楽器もマ−チ用って言ったら、スーザくらいだった。
大会もその年はフェスティバル参加でした。
簡単なブロックだけのほとんど動きのないドリルで、音はそろわず飛ばず..。
それでも、夏中、真っ黒になりながら練習した成果に私たちは満足したもんです。
その時に、明浄学院QueenStarには、入場からド肝抜かれました。
出て来る出て来る。「いったい何人いるの???」って思わず言ってしまったほど、すごい人数の女子高校生が、次々に出て来て、演じ始めたわけですが、そのすごい人数の一群が、美しい絵を描きながら、抑揚のある力強い音を飛ばしてくれている。
も〜〜〜、大感激でした。
んまぁ、人数だけで言えば、3000人の吹奏楽で、西宮市や尼崎市の学校が合同でやるマーチの方が、はるかに多いけれど(^^;、動きと音楽とにこんなに引き付けられたのは初めてだったんです。
その後、DCIのビデオを見るまで、私の中では、QueenStar is No.1だったんですねぇ。

うちの子たちにもあんなことできるようになるんだろか?
とても無理? いや、できる? って、ワクワクしてました。
「追い付いて、いつか追い抜いてほしいなぁ」とも思いました。

金光がマーチ始めて6年目の昨年、ようやく追いつけました。
追い付いたはいいんだけど、関西で同率2位。
むごかったですねぇ。全国への出場枠が2つしかないので、最後は審査員の決選投票で、3:2で明浄に席を譲りました。
今思い出しても泣けてくるくらい、あの日は、ボロボロに泣きました。
そばにいた母が「あなたが泣いてどうするの。もっとつらいのはHiroくんでしょ」って言うけど、私は6年がかりだったんだもの。そりゃ、泣きますわよ。人目はばからず、おんおん泣きました。

でも、不思議に明浄に対して悔しさはなかったですねぇ。
むしろ、明浄が全国に行けたことは素直に喜んでいました。その前年の明浄を見て、彼女たちが痛々しくなるくらい、「来年はかなり厳しいかも」っていう思いをさせられるものがあったんです。
そして、もう一つ、その年、私が大切にしている友人が明浄の指導に返り咲いたということも、彼女たちが全国に行けたことを喜べる理由になっています。
私が初めて明浄のショウを見た時、彼はもうすでにおらず、彼の存在すら知らず、その後、縁あって知り合うことになるんですが、彼が「強くするため」に戻った明浄は、みごとに強くなっていました。うれしかったですねぇ。
金光大阪が明浄と肩を並べられるだけの力を持てるようになったことを喜ぶことができるようになったのは、ややあとになってからのこと。

さぁ、今年もいよいよ大会シーズンの幕開けです。
わが子が卒業した分、密着度も薄くなって、今、私のなかでは、金光と明浄とそれぞれへの距離感はそんなに差がありません。
今年は、もう少し楽しんで観られるかな? と思っています。
そして、枠も増えたことですし、願わくば、どちらも全国に進んでくれたら..。
2001年9月8日(土) 南京町
掲示板上に南京町の話題が出たので少し..。
数年のブランクを置いて、合計10年近く神戸で仕事をしたが、いずれも元町近くの会社で、南京町は目と鼻の先だったので、主にお昼休みに食事に行った。
南と東に大きな楼門が出来て町が整備されたのは、子供が出来てから勤めた会社にいる頃で、すっかり観光化されて、かつての生活の匂いはなくなってしまった。
まぁ、あんなゴミゴミと廃れた雰囲気の町じゃ、観光客は来ないよねぇ。

で、私が一番南京町のことで印象に残っているのは、地震の直後のこと。
当時、小6だった裕明を連れて、神戸の街を見せに行った。
もちろん、我が家も全壊認定受けるような被害を受けてたし、西宮自体も惨状があちこちにあったけれど、神戸の被害はもっとひどかった。
なぜだかわからないけれど、訳もなく、「今この子たちには見せておかないといけない」と思ったわけで。
西宮から青木まで阪神電車に乗って、そこから代替バス(代替なんて言葉、この時初めて知ったなぁ)に乗って三宮へ。
西へ進むごとに、街の崩壊はひどくて、それまで話をしていた裕明はだんだん無言になってしまった。
三宮で降りて、そごうの角からフラワーロードを南に向くと、神戸市役所が中層部でグッシャとつぶれているところが目に入った。
私は、自転車で元町まで行ったりして、それまで何度か目にしていた光景だったけれど、やはり何度見てもグッと胸が痛くなる。
センター街を歩くと、ガレキが通りに散乱しているし、倒れた建物同士がもたれ合うようにして道を塞いでいるし、なかなか思う方向に進めなかった。
その間、ひたすら二人は無言。町全体に大きな負のエネルギーが覆ってるみたいに、歩くほどにどんどん体も心も重くなる。
「おなかすいたでしょう?」
「うん」
このくらいしか会話しなかった。

「南京町まで行ったら、なんかあるかもしれないから」と言いながら、崩れた大丸を横目に見て南京町に入って行くと、そこだけ別の世界のように活気があった。
プロパンで火を起こしてラーメンを売ってる店があっちにもこっちにも。大きな呼び込みの声が飛び交ってる。
「食べていきよ。食べたら力出るで」とおっちゃんが、叫んでる。
客と店員のやりとりもリズミカルで、みんなが楽しそうにしてる。
ほこりで薄汚れた顔と手のまま、その中の1軒でラーメンを買って立ち食いした。
上等の味じゃなかったけど、おいしかったなぁ。
その時の裕明の顔、ホッとした顔だったなぁ。
元町周辺は、三宮ほど被害がひどくなく、倒れた建物が少なかったこともあって、生き返ったような気分だった。
後に、一番先に営業を始めたのは南京町の人たちだと聞いた。
それまでの長い歴史の中で、山あり谷ありを経験し、生き残って来た町の底力だったんだろうな。
なんかでしんどくなると、あの南京町の活気を思い出す。
泣いてても、なんにも変わらない。とにかく動いてみよう。
2001年9月17日(月) 不安
私たちにとって、忘れられない出来事はいくつもあって、この前に南京町にまつわって地震の時のことを書いたけれど、その直後のニューヨークでのテロ。これは、その時のショックも大きいけれど、この先の不安がずっと続いていて、ずっと忘れられない出来事になるだろうし、場合によっては、もっと深刻な事態が降りかかってくるやも知れず、そうなった時には、個人レベルでは最も忘れられないことになってしまうのかも。

戦争になるらしい。
テロは断じて許せないし、徹底的に犯人を糾弾しないといけないとは思うけれど、「報復」にはまた「報復」が返って来るんじゃないだろうか。
罪をつぐなうというけれど、報復で誰かの命を奪った罪は、テロの罪で相殺できるんだろうか。
誰が、誰の罪をつぐなえるんだろうか。
互いに自分を正義と思っている者同士が戦い出すと、相手の息の根を止めるまで終わることがないんじゃないだろうか。

どうも、キナ臭いというか、今回の戦争を決定するまでの経緯があまりにも性急にすぎる気がしてならないんだけれど。
不況の坂を転がり出したアメリカの資本家たちは、単に報復という感情ぬきにしても、戦争を歓迎しているに違いない。
資本経済の基本は、Scrap & Build.10年がかりで大きなビルを作ってそれを壊し、また10年がかりでビル作って..それを繰り返していれば経済は安定すると言った経済評論家がいたそうだけれど、あまりにも今回の事件は象徴的過ぎて、例に引くことも気がひけるほどだ。

今、我が家でもっとも心配なことは裕明のこと。
「オレどうなるんやろう」とポツっと言ったきり、その後口にしないので、家族も話題にもしないけれど実は誰もが心にひっかかってしかもどんどん広がってること。
来年のDCIはできるんだろうか。
2001年9月27日(木) 某コンビニ
今日は、息子にもらったチャーハンとおむすびをお昼ご飯に食べている。
朝、ひょろっと出かけていったと思ったら、お弁当類を抱えて帰って来た。
「廃棄が多くなりそうなので、社員が買い取った」そうで。
指定時間になると、保存衛生上の問題から生モノは廃棄されていくんだけれど、この廃棄量が多いと下手な発注をしたという実績になるようで、管理責任を問われるのだろう。
以前にも、売上増強のかかった商品が売れなくて社員が自腹切って買い取り、独り暮らしだから食べられないとうちで引き取ったことがあった。
こうやって売上は成立し、商品管理は完璧になされた。ということになるんだろうけれど、これって変。
私もサラリーマンの時代に広告がどうしても売れなくて、自腹切って架空売上あげちゃおうか? と思ったことがあるけれど、それをやっちゃおしまいだというプライドがあったので、いや、正直に言っちゃうと、それほど財布が豊かではなかったので、やったことはなかった。
今、うちの社員が、こっそり自腹切って広告をでっちあげるようなことをしたら、その時点で会社は終わりだと思ってる。
問題は、売れないことなのであって、社員が売上をかぶって済むわけじゃない。
何も生まれていないんだよね。
どうして売れないのか。どうしたら売れるようになるのか。余分な発注をしないためには、何をチェックすればいいのか。
それを一緒に考えられる環境のない会社なら、その場はしのげても長い目で見れば結局衰退していくことになるんじゃないのかな。

先日は、「バイトの子が全員一定レベルに達したから」という理由で時給下げられた。到達してほしいレベルに達したら、時給上げるのがスジじゃないのぉ??
どう考えても納得いかない。
バイトで組合作って闘え!
それも馬鹿馬鹿しければ、人間をただの駒扱いするようなところ、とっとと辞めちまえ!

と言いつつ、食っちまった。はぁ〜。

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Akiary v.0.42